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中之条町の歴史

ページID:0001292 更新日:2024年2月23日更新 印刷ページ表示

原始・古代

中之条町には、縄文時代各期の遺跡が数多く存在します。なかでも名久田川流域の宿割遺跡・下平遺跡・上沢渡の久森遺跡などが代表的です。弥生時代では、有笠山遺跡・伊勢町遺跡などが有名です。古墳時代には、町内の各河川に沿って古墳が造築されています。

やがて律令国家の時代を迎えると、上毛野国(現在の群馬県、8世紀に上野国と改められる)には14の郡が建置され、この地域は吾妻郡と呼ばれるようになりました。吾妻郡には伊参・大田・長田の三郷(『和名類聚抄』)があり、中之条盆地周辺に存在しました。この時代の資料としては、銅印、墨書土器、奈良三彩陶器片などの貴重な遺物がJR吾妻線中之条駅南から発掘されています。郡の政庁・役所である郡衙は、大宮巖鼓神社(東吾妻町)付近に存在したと推定されていますが、これらの遺物の出土は、中之条駅南の地域が郡衙や郡政治と密接な関わりをもっていたことを想定させます。

都で仏教が受容され、大寺院の建立が開始すると、吾妻郡にもその影響を受けて寺院が建立されたことが確認できます(金井廃寺、東吾妻町)。寺院建築や官衙に必要な瓦の生産も、町内伊勢町字天代に所在する天代瓦窯跡で行われていました。この瓦窯では、金井廃寺や郡衙に留まらず、有馬廃寺(渋川市)や上野国分寺(前橋市・高崎市境)に向けても瓦を製造していたことが確認されています。

また、大字市城(JR市城駅周辺)には、市代牧という馬の牧場が存在しました。上野国に9カ所存在した勅旨牧(皇室用の馬を育てる牧場)の一つで(『延喜式』)、周辺には馬にまつわる地名や神社が今なお数多く残されています。

中・近世

鎌倉時代には、吾妻郡東部を吾妻氏、西部の三原庄を海野氏が支配し、御家人として活躍しました。吾妻氏は馬と関係が深く、市代牧を本拠として武士化したと推定されています。養和2年(1182)、吾妻八郎という武士が太政官(朝廷)に栗毛の神馬を献上したこと(『吾妻鏡』)が、その裏付けとなります。

南北朝時代から斎藤姓吾妻氏となり、六代目当主斎藤基国の代には西方より入国した武田家臣真田幸隆に居城の岩櫃城(岩下城、東吾妻町)を落とされてしまいます。その子城虎丸は獄山城(嵩山城)に拠ったが、永禄8年(1565年)に落城しました。

天正8年(1580年)、利根・吾妻郡を支配した真田昌幸は武田・北条の滅亡後も両郡を領有し、その子信之(信幸)は沼田藩真田氏の基礎を固めました。初代沼田藩主から五代続いた真田氏は、中之条町・原町・伊勢町などの町割を完成させ、市場町として栄えました。

草津温泉が著名となる化政期以降、四万・沢渡の両温泉も大いに賑わい、沢渡に湯治に来ていた高野長英は、福田宗禎などの弟子を育て吾妻蘭学の基盤をつくりました。白久保のお茶講(国指定重要無形民俗文化財)・鳥追太鼓(県指定重要有形民俗文化財)など、未曾有の浅間山噴火などの災害の中でも伝承してきました。

近・現代

明治維新は、廃藩置県・地租改正など大変革が続き、文明開化の波が吾妻地方にも広がりました。明治3年(1870年)に廃仏毀釈事件があり、明治11年(1878年)には中之条町に郡役所や諸官庁が設立されました。明治22年(1889年)は市町村制の施行で、中之条町と沢田・伊参・名久田村が生まれました。

学校教育については、明治5年(1872年)学制頒布、明治18年(1885年)吾妻第三小学校が建設され(のちに中之条町役場となり、現在は中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」)、明治32年(1899年)群馬県農学校(現吾妻中央高等学校)が創設され、明治45年(1912年)吾妻軌道馬車鉄道が開通されました。

大正8年(1919年)は大正デモクラシーの世相の中で、吾妻高等女学校が開校されました。大正末期から昭和初年にかけての不況、続く長い戦争の中で、昭和20年(1945年)吾妻線が開通しました。昭和30年(1955年)町村合併を経て、平成22年(2010年)の六合村との町村合併により、現在の中之条町が誕生しました。