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嵩山三十三番観世音|道の駅霊山たけやま|
嵩山(たけやま)三十三番観世音
嵩山には登山口を第一番目として、山北の池平の第三十三番目に至るまで、山内に石仏が点在しています。
戦国時代、斉藤城虎丸(さいとうじょうこまる)(18歳)を城主として守られていた嵩山城は、永禄8年(1565年)11月17日、武田信玄方の上田城主・真田幸隆(幸村の祖父)に攻められ、死力を尽くしましたが、ついに落城し、斉藤氏一族は婦女子まで自刃、あるいは大天狗の岩から飛び込んで自決したと伝えられています。
嵩山城落城の約140年後の元禄15年(1702年)、嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者を供養するために、五反田に住み着いていた江戸の僧・空閑(くうかん)と地域の人々を中心に、坂東三十三番の観音像が建立されました。
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まずは1年がかりで坂東三十三番の観音像を建立、10年後に秩父三十四番、西国三十三番を建て、さらに享保14年(1729年)には※経塚を※実城の平につくって供養しました。
そして観音像建立の約150年後の嘉永7年(1854年)、観音群のうち43体が修復され、さらに約150年後の平成18年(2006年)、「平成の大修復」作業が行われました。嵩山観音群は、平和を願う民衆の心を伝える貴重な文化財です。
「経塚(きょうづか)」とは
平安時代から室町時代に法華経などの経文を書写して、経筒、経箱に入れて地中に納めた塚。
「実城の平(みじょうのたいら)」とは
中天狗と大天狗との鞍部をいいます。「御城の平」あるいは「無情平」と呼ぶこともあり、本丸を「実城」と呼び、実城→御城→無情と変換したのではないかという説もあります。